論説・コラム

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シリーズ・国のかたちを考える2018/宮城県南三陸町長・佐藤仁氏  [2018年7月9日1面]

佐藤町長

 ◇住民守り背中を押すのが仕事
 三陸沿岸の歴史は津波と切り離せない。私自身、小学3年生だった1960年のチリ地震津波で自宅を失った。チリ地震津波以来、当町は津波防災に力を入れてきた。
 東日本大震災では想像を絶する被害を受けた。思いきった高台移転に反対の声はなかった。「もう逃げなくていい、自宅にいれば命が守れる安心安全な街になった」と評価していただけた。志津川地区の中心地に祈りの場やさんさん商店街、震災記念館、隈研吾さんデザインの橋など、震災に関する学びの場ができつつある。
 震災1カ月目から毎月開催している「復興市」も7周年になる。当初は安否確認目的も兼ねた開催だったが、今は誰もが笑顔で参加できるイベントになった。町民の皆さんが一丸となって運営してくれており、そのリーダーシップを頼もしく思う。
 震災復興計画を立案した時に「エコタウンへの挑戦」というテーマを掲げた。漁業での水産認証審査ASC(水産養殖管理協議会)と、林業での森林認証審査FSC(森林管理協議会)を実現させた。関係者には視察・研修などに快く対応していただけた。これらが町のブランドとなる。
 いま目指しているのは志津川湾など、南三陸の沿岸をラムサール条約に登録してもらうことだ。生産者にとって障害になるなら取得を断念しようと思ったが、問題ないと判断していただけた。私たちは海、山と寄り添って生きてきた。手ひどい仕打ちを何度となく受けても、南三陸の海と山がすべてを育んでいる。震災の記憶は一人一人が胸に刻み、祈り続けていく。同時に私たちは未来へ歩んでいかなければならない。そのとき、やはり郷土の風土を切り離しては考えられない。
 先日、さんさん商店街前で高校生のカップルが手をつないで歩いていた。震災後初めてそのような風景を目にした。7年前、がれきの中に、最初の電柱が1本立ったときのことを思い出した。何から始めればいいのかも分からない状況下で、たった1本の電柱がどれほど救いとなったことか。それが今では若い子たちが笑顔で下校していく。フェーズの転換を実感した。
 復興インフラ整備はここ3年で完了する。これからは災害公営住宅入居者のコミュニティー形成が喫緊の課題と考えている。入居者同士でお茶飲みが気楽にできる関係構築まで、まだ近隣関係の交流が進んでいない。
 住民の手を引き、背中を押すのが行政の仕事だと思い取り組んできた。精神的な疲れに負けない、へこたれない日々はまだ続いていく。
 (さとう・じん、2005年11月に初代南三陸町長就任。現在4期目。66歳)
 【南三陸町】2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生。宮城県の北東部に位置し、人口1万3063人(5月末時点)。地元産材を使った庁舎は有名。森と海の豊かな資源に恵まれ、志津川湾の海藻でラムサール条約登録を目指している。

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