東日本高速道路会社/常磐道全線開通10周年/地域発展と震災復興に貢献

2025年6月18日 工事・計画 [12面]

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 埼玉県三郷市から宮城県亘理町まで全長約300.4kmの高規格道路「常磐自動車道」(三郷JCT~亘理IC間)が全線開通し、3月で10年を迎えた。東京方面と仙台方面を太平洋に沿って結び、茨城県や福島県浜通りを中心に沿線地域の発展に貢献。東日本高速道路会社は10年間の経済波及効果を3兆円と算定した。輸送コストの低下や所要時間の短縮など地域経済を支えている。
 常磐道と東北自動車道のダブルネットワークが構築され、東京~仙台間を通行する車両の約4割が常磐道を利用している。東北道で降雪による通行止めが発生しても、降雪量が少ない常磐道が車両の交通を分担し、冬季の安定的な通行路確保に貢献する。
 東日本大震災で発生した除染土壌の運搬では、常磐道のならはPA・大熊IC隣接地や磐越自動車道の差塩PA・三春PAに運搬車の駐車スペースを設け、一時待機や車両点検に活用。大熊IC整備後、中間貯蔵施設への除染土壌などの輸送量が、年間184万立方メートルから最大406万立方メートルへ増加するなど、迅速な復旧・復興を支える。

 □つくば万博開催決定で機運上昇□
 茨城県や栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、神奈川県、東京都、長野県を管轄する関東支社。松坂敏博常務執行役員関東支社長は、整備が困難だった区間の一つに「流山IC~柏IC間」(千葉県流山市~同柏市)を挙げる。
 常磐道は1970年、当時の建設省によって整備計画が策定された。71年に路線を発表すると、流山IC~柏IC間の沿線で反対運動が起こった。周辺住民へ配慮するため、74年に遮音壁や環境施設帯の設置を、76年に半地下構造を提案したが、流山、柏両市には受け入れてもらえなかった。
 雰囲気が一変したのは、79年の国際科学技術博覧会(つくば万博)開催の決定だった。国家プロジェクトとして常磐道の整備を進めるという機運が高まり、両市は81年に半地下構造での建設受け入れを表明した。騒音防止対策には日本音響学会が協力し、遮音壁の設置方法に関するシミュレーションを行った。松坂支社長は「半地下構造の複雑な環境で音響予測や遮音壁の研究を実施するのは、当時初めての試みだった。携わった先輩方は相当苦労したはずだ」と思いを巡らす。
 茨城県北部にある一部区間の地下では、古い時代の炭鉱跡地(常磐南部炭田地帯)が見つかった。この区間では崩落のリスクに備え、コンクリート製床版を敷設した上に道路を舗装している。地下の炭鉱が崩落しても床版で道路を支える構造で、「土構造物区間でのコンクリート製床版敷設はとても珍しかった」(松坂支社長)という。
 2011年3月11日、東日本大震災が発生。供用されていた水戸IC~那珂IC間(水戸市~茨城県那珂市)は大きな被害を受け、盛り土のり面が崩壊した。重機や作業員を集中動員し、被災からわずか20時間後、緊急車両が通行できる程度まで復旧した。

 □常磐道なくして復興は語れない□
 青森県や岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県を管轄する東北支社の梅木秀郎常務執行役員東北支社長は「常磐道なしには東日本大震災からの復興は語れない」と言い切る。
 震災前、常磐富岡IC~山元IC間(福島県富岡町~宮城県山元町)は未整備だったが、12年4月に同区間の一部となる南相馬IC~相馬IC間(福島県南相馬市~同相馬市)が開通。梅木支社長は「前後区間が整備されていない『飛び地』状態で、通行料を暫定的に無料にした高速道路会社の歴史上ほぼ初めての試み。復興の弾みになり沿線住民から喜ばれた」と振り返る。
 前後区間は15年3月までに順次開通し、除染土壌の安全で効率的な運搬に貢献している。除染土壌の運搬が本格化する前に大熊IC・常磐双葉ICの整備を間に合わせるため、「設計業務と並行して概算数量で工事を発注するなど、いろいろな工夫を講じた」(梅木支社長)。
 現在、暫定2車線区間の4車線化に取り組む。4車線化は車両の規制速度が上がり、災害時にリダンダンシー(冗長性)を発揮する。梅木支社長は「さらなる安全かつ安定した高速道路の提供ができるよう、着実に4車線化事業を進めていきたい」と意気込む。
 常磐道は1981年、柏IC~谷田部IC(茨城県つくば市)間で初めて開通。供用を始めて40年以上経過した区間も少なくない。老朽化対策などを着実に進め、今後も経済や生活、復興への基盤となるインフラの役割を果たし続けていく。